2008年1月13日日曜日

書評:ジョン・A・パウロス著,「数学者の無神論」

ジョン・A・パウロス著,松浦俊輔訳,「数学者の無神論」,青土社を読了.神の存在についての様々な「証明」を,論理的に検討してはその不十分な点を指摘する,というのが第一の目的.さらに,神への信仰を持たない人,「無神論者」,「不可知論者」が世間で被る不利益について,それが言われないことであることを論じるのが背景にあります.


子供の頃カトリックの教会に通っていてしばしば聞かされたのが,以下の目次にあるところの,「デザイン論法」.同書の表現を借りると(p. 28):



  1. 世界一般あるいはそこにいる生物は,明瞭な意図や指図があったことの証拠に見える.

  2. この目的の背後には,それを意図した者,あるいは指図した者がいなければならない.

  3. それは神様とするほかなく,ゆえに神様は存在する.


子供の頃に既に思ったのは,こんな感じです:世界や生物が如何にに精妙不可思議に組み立てられているとしても,それは人間の目から見たこと.神様というものが存在し,言われているように全知全能なものなら,世界や生物の仕組みなど取るに足らないものだろう.ならば神様というものを持ち出さずとも,人間の知識の範囲で(まだそれでは説明が及ばないにしても,いずれその範囲に収まるであろう)説明するほうがよい,ということでした.オッカムの髭剃りという例え話は知りませんでしたが.


関連して同書で議論されているのは,「定義替えからの論証」の章,p. 115での「神様は計り知れないほど複雑だとする」.この世界を説明するだけの十分複雑な理論として,神を定義しなおし,その実在を信じる,というものです.しかし,本章の末尾で述べられているように,それが従来の神への信仰とどう結びつくのかよく分かりません.


パスカルの有名な賭けも論じられています.一言で言えば,神ありと信じて現世で損をすることはなく,本当に天国があればそこでも嘉せられる.ならば神ありと信じよ,というものです.これは神の存在を論ずるというよりも,それを教義として含む信仰を選ぶか否かについて,「期待値」を最大化する選択をする,という意思決定に関する考察と見るべきでしょう.


そのほか様々な議論を俎上にあげていますが,本書の立場としてはどれも論理的に納得できるものではない,というものです.


さて私も数学者の端くれとして考えるに,まず存在を示すには


  1. 既存のものから構成する
  2. 存在しないと仮定すると矛盾が起きる

のいずれかしかありません.第一因としての神の存在を論証しようとすると1は使えないので,2の路線となります.そしてこれまでいろいろと議論されてきた「神の存在証明」が不十分であることを論じているのがまさしく本書です.一方で,「神の不在」を証明するのも同じ議論で,つまり存在すると仮定して矛盾を導く.


いずれを議論するにしても,まず神の性質としてどれほどのことを要求するかを確定させなければなりません.自然科学のこれまでの成果を仮定するなら,神が造物主である必要はなくなります.この宇宙の存在の理由さえ,仮説の範囲を抜けませんがそれを説明する理論がある(つまり,偶然ということ).神は沈黙しがちであり,敬虔な者が苦況にあるときでも存在を詳らかにすることは少ない.特定の民族を栄えさせようという意図もおそらく無い.それどころか,人類に対してもこの地球に対しても,敵意を抱いてはいないにしても特段の関心はないようにも思えます.


これは伝統的な宗教が教える神の性質を軒並み否定しているようなものです.そのような神の存在(あるいは非存在)が,我々にとってどんな意味があるのか,ということになりかねません.


自然を説明する対象としての神に必要がなければ,もっと人間寄りの現象を説明する対象としての神(の存在)を論じることになります.私が思い浮かぶポイントは,一つは,個人に対して,あるいはより大勢の集団に対して,倫理をもたらすもの.もう一つは,個人に対し利他行動を促すもの,です.


この点についても,本書では論じられていて,それが3章の「普遍性論法」です.つまり,世界に広く見られる共通した倫理観念(盗んではならない,殺してはならない,姦淫してはいけない,などなど)があり,それをもたらしたのが神である,つまり人類に共通の倫理を,神の存在の根拠とするものです.


本書で根拠として提案するのは,そのような規則がなかった集団は現在まで生き延びることが出来なかった,ということです.そして,そのような規則を尊重しない個人は,集団の中で有利な位置に付けず,特に子孫を残すにあたって不利であったかもしれません.


一方で,個人が利他行動に及ぶのはなぜか.上記のように,そのような規範を持つ集団のほうが生存に適していたというのは,そうかもしれませんが,根拠として薄弱なようにも思われます.本書では,無神論者が利他行動に及ぶなら,特定の宗教を信仰する人が,宗教上の規範に沿ってそのように振舞うよりも,より純粋だというような記述があります.


ここで対比するのは,無神論者が社会規範に沿うために倫理的に考え行動することと,信仰を持つ人が,宗教上の規範に沿うために倫理的に考え行動すること,です.無神論者が,その合理的思考の結果としてそう振舞うならば,状況が変わった場合に,合理的思考の結果としてそのように振舞わないことも考えられるのではないでしょうか.信仰を持つものが,どう考えても不合理としか思えない行動を,信仰の結果として選ぶことは,歴史上しばしば見られ,小説などにもなっています.


神が存在することの証明にはなりませんが,そう信じることによって,個々人の人生において,倫理観念とそれに基づく行動が一貫して見られ,また一貫して利他行動が見られるのであれば,自分がもしかしたら不可知論者かもしれないという疑念は括弧に入れた上で神を信じ,その教えるところを生きることには,意味があるのではないかと思います.


以上では論点にあげませんでしたが,祈りというものの重要性,人生に於いて持つ力も看過すべきではなく,神有と信ずる一つの理由(意義付け)であると私は思います.



目次は同書のweb pageから.



  • はじめに

  1. 四つの古典的論証

    • 第一原因論法(および不必要な仲立ち)

    • デザイン論法(および創造主義者の計算)

    • 自作の擬似科学

    • 人間原理による論証(および確率論的終末論)

    • 存在論的証明(および論理学的おまじない)

    • 自己言及,再帰,創造

  2. 四つの主観的論法

    • めぐりあわせ論法(および九月一一日にあった奇妙なこと)

    • 預言論法(および聖書の暗号)

    • 心情的必要に関する余談

    • 主観からの論証(および信仰,空しさ,自我)

    • 介入からの論証(および奇蹟,祈り,証し)

    • イエスなど,歴史上の人物に関する見解

  3. 四つの心理/数理論論証

    • 定義替えからの論証(および理解しがたい複雑さ)

    • 認知の傾向からの論証(および単純なプログラム)

    • 神様と夢のチャット

    • 普遍性論法(および道徳と数学の関連)

    • ギャンブル論法(および思慮分別から恐怖にいたる諸感覚)

    • 無神論者,不可知論者,「ブライツ」



  • 訳者あとがき

  • 索引

0 件のコメント: